本日のコラムはいつも以上に襟を正して書かせ頂きます。
ヘッジファンド業界の巨人、ジュリアン・ロバートソン氏が先日90歳の生涯を全うされ、天国に旅立たれました。
ウィンスロー・ジョーンズ氏が”ヘッジファンド”のコンセプトを発明され、それを大きく世界に認知させた一人が、タイガーマネジメントの創始者であるジュリアンさんだと思います。90年代に世界大きく沸かせたヘッジファンドのパイオニアでもありますが、ジョージ・ソロス氏との違いはその弟子たちの多さではないでしょうか。
もちろんソロスさんもスタンレー・ドラッケンミュラーさんなど優れた弟子たちを輩出しておりますが、いまの米国金融界において主翼の一角をなすTiger cubたちは大きな影響力を持つことは周知の事実だと思います。ヘッジファンドを社会に認知させ、そして優れた才能たちを開花させたジュリアンさんの貢献に心から尊敬と感謝の念を申し上げたいと思います。
今週のFT記事より Obituary: An industry giant who mentored “Tiger cub” traders -Julian Robertson-
ジュリアン・ロバートソンは「最高の企業を所有し、最悪の企業の下げに賭ける」という極めてシンプルなアプローチで投資を行ってきた。投資の世界で成功するためには、間違いよりも正しいことの方が多い必要がある。そしてロバートソンが1980年に設立したヘッジファンド会社、タイガー・マネジメントの経営に携わっていたほとんどの期間、彼はそれを証明し続けた。90歳で亡くなったロバートソンであるが、一方で「タイガーカブ」と呼ばれるヘッジファンド・マネージャーの一群を生み出した投資業界の巨人である。
1932年、ノースカロライナ州に生まれたロバートソンは、大学卒業後、米海軍の将校として勤務した。1957年、米国の証券会社キダー・ピーボディ社に営業研修生として入社し、ここでヘッジファンド業界の生みの親であるアルフレッド・ウィンスロー・ジョーンズの娘婿と親しくなる。後にこれが、タイガーの投資手法の基礎となる。
1978年、ロバートソンは小説を書くためにニュージーランドに渡ったが、時をおかずニューヨークに戻る。そして48歳の時にタイガーを共同設立。タイガーという社名は、人の名前を覚えられないときに、その者を「タイガー」と呼んでいたことに由来する。最初は800万ドルの資本でスタートしたファンドであったが、ピーク時には210億ドルを超える規模に成長。20年以上にわたり、年平均25%以上のリターンを達成し、そのうち14年間はS&P500種株価指数に勝っている。
長身で細身、社交的なロバートソンは、サヴィル・ロウのスーツに身を包み、カロライナ風の話し方で、鋭い知性をさりげなく身にまとっていた。セバスチャン・マラビーは、著書『More Money Than God』の中で「彼は、南部流の魅力とニューヨーク流のネットワークを持っていた」と書いている。「彼は男の中の男、ジョックの中のジョックであり、彼に近い人物を好んで採用した。
典型的なタイガーのアナリスト達は、競争心が強く、好奇心が強く、外向的で、しかも男性であった。ロバートソンのチームは「まるで海軍特殊部隊のようだった」と、タイガー・キューブのフィリップ・ラフォンは振り返る。ロバートソンは、毎朝6時ちょうどにトレーディングデスクに電話をかけ、パフォーマンスをチェックした。アナリストは投資について質問され、小数点以下の桁数や数字の間違いに上司が飛びつく。ロバートソンは、トレーダーたちにジムで自転車レースをさせたり、自家用機でアイダホ山中にある保養所に連れて行ったりもした。タイガーがサポート役として雇っていた女性たちは、「まるでスーパーモデルのようだった」と、ある訪問者は振り返る。
ロバートソンは、若者から学ぶことを心から楽しんでいた。金融危機の数年前、アナリストの一人が教えてくれるまで、彼はクレジット・デフォルト・スワップの市場についてしならかったが、CDSの取引を決めるや否や2007年から2008年にかけて3桁のリターンを上げた。
タイガーはそのシンプルな投資手法とは裏腹に、企業やその経営者を徹底的に分析する。ロバートソンは短気なところもあったが、その個性の強さで、歌手のポール・サイモン、作家のトム・ウルフ、ブラックストーン創業者のスティーブ・シュワルツマンなど、多様な投資家グループを形成した。1998年には、マーガレット・サッチャー元英国首相を顧問に迎え入れたこともある。
空売り投資家であるジム・チャノスは、90年代にタイガーのために空売りポートフォリオを運用し、自分のアイデアを擁護するために101パークアベニューの本社に定期的に呼び出されたことを回想している。最初のランチ後ロバートソンはチャノスをエレベーターまで送り届けた。「ジム、素晴らしかったよ、来てくれてありがとう」と彼は言った。「ついでに、そのショートをカバーしてください」、つまり投資を終了しろ、と告げたのだった。
タイガーの遺産は、ロバートソン自身の実績もさることながら、ラフォン、チェイス・コールマン、ジョン・グリフィン、リー・エインズリー、スティーブ・マンデル、アンドレアス・ハルボルセンら、彼の弟子たちの成功にある。2021年に大破綻したビル・ホワンのアーキゴス・キャピタル・マネジメントを含め、200社近くのヘッジファンドがタイガー・マネジメントに起源を求めることができる。
3人の息子と9人の孫に囲まれたロバートソンは20億ドル以上を慈善事業に寄付し、「ギビング・プレッジ」の初期の署名者の一人である。ジュリアンが信頼する人物から慈善活動を勧められたとき、彼はすぐに小切手を書いたが、その小切手にはいつもたくさんのゼロが含まれていましたと、「寄付の誓い」を共同作成したウォーレン・バフェット氏はFTに語っている。”彼は評価や感謝の言葉を求めることはなかった”。
タイガーは成長するにつれ、その中核である米国株の専門性を超えて、国債、商品、通貨へと拡大していった。ロバートソンの成功の原動力となった、揺るぎない信念に基づく高額な賭けは、やがて彼の破滅を招いた。日本円に対する巨額の賭けと航空会社USAIRの大きなポジションは、大きな痛みを伴うものとなった。また、ドットコム・ブームを受け入れることを拒否したため「知らず知らずのうちに、崩壊する運命にあるネズミ講を作り出していた」と彼は言い、1999年にはファンドの価値の5分の1を失った。
ロバートソンは、ドットコムバブルについて最終的には正しかった。しかし、タイガーにとってそれは遅すぎた。損失と資産の低迷を経て、2000年にようやく外部投資家の資金を返還した。カリスマ的な創業者は、「株式市場において、早いということは、間違っているということと同じだ」ということを、身をもって証明したのである。R.I.P
それでは今週もご自愛ください。